(角田晶生 つのだあきお・鎌倉の文章屋「角田書物(〜かきもの)」店主)
※過去のブログをサルベージ。
2011年4月 8日 (金)
http://shinpu-nishitokyo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-b60a.html
出でていなば 主なき宿と 成りぬとも
軒端の梅よ 春をわするな
これは『吾妻鏡』に遺されている源実朝(みなもと の さねとも。建久3年8月9日(1192年9月17日)生 - 建保7年1月27日(1219年2月13日)没)が詠んだ最後の(結果として辞世となった)歌です。
源実朝
http://www.geocities.jp/hagimanjuu/sanetomo.htm
その意味は「私が出て行ったなら、ここは空き家となるだろうが、庭の梅よ。どうか来年も咲いておくれ 」となるでしょうか。要するに「私は二度と戻らない(=死ぬ) 」事を暗示している事になります。
実際、その日に鶴岡八幡宮の大銀杏の下で、甥に当たる(実朝の兄・源頼家の子)公暁(くぎょう)に暗殺されている事から、「実朝は自身の運命(あるいは暗殺計画)を予感し、逃れられぬ事を悟って(覚悟して)いたのだ 」と見られているようですが、少し解釈が重たく感じてしまいます。
私はこの歌が、もう少し穏やかな心持ちで詠まれたものだと思います。
「男児門を出ずれば七人の敵あり 」とはよく言ったもの、男に生まれた身であれば、ごく当たり前の覚悟です。すべからく男は闘うために生まれ、志に命を全うする。それは、今も昔も変わらないものです。
故事ことわざ辞典blog : 28.男は敷居をまたげば七人の敵あり
http://kotowaza.exblog.jp/1579346
風雅をこよなく愛した実朝のこと、日頃の覚悟を花に寄せて詠った。ただそれだけの事なのでしょう。
「また、会えたらいいね 」。
軒端の梅に、何気なく挨拶を交わす。そんな実朝の優しさ、軽やかさを、私はこの歌に感じます。
たとえ行く先が絶体絶命の死地であろうと、ふらりと出かけていくような。
その境地に至るのは、まだまだ先のようです。
そのニ
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http://shinpu-nishitokyo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-a7b7.html
ねがわくは はなのしたにて はるしなむ
そのきさらぎの もちづきのころ
こちらは西行法師(さいぎょうほうし。元永元年(1118年)生 - 文治6年2月16日(1190年3月23日)没)がその晩年に詠んだ歌と伝わっています。
願わくは、花の下にて
http://kun.veritas.jp/rinzin-19.htm
もしも願いが叶うなら、春は如月(旧暦2月)、満月の夜。咲き誇る花の下で死にたいものだ。そんな思いで詠ったものでしょう。
ちなみに花とは梅を指しています。桜が花の代名詞(例:「花は桜木、人は武士 」など)となったのは平安時代以降のことで、当時はまだ脚光を浴び始めた、くらいの認識です(梅は奈良時代にシナから伝わったと言われています)。
花は桜木人は武士の意味 - 国語辞書 - goo辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/178133/m0u/
梅の歴史1(梅の伝来)梅は薬として伝わった!?|ふるさと物産企画センター
http://www.popal.co.jp/bussan/iwasete/iwasete3.html
そして旧暦2月と言えば現代(太陽暦)における3月に相当し、望月(満月)の頃と言えば今年(平成23年)なら3月20日に当たります。
かくして西行法師が亡くなったのが如月の16日。つまり太陽暦で3月23日。まさに最高のシチュエーションで天寿を全うできた、と言えるでしょう。
爽やかな梅の香り、春風を胸いっぱいに呼吸して、彼は名月に目を細めた事でしょう。絶望に道を求め、苦難に満ち満ちた人生を報いてなおあまりある、仏様のお計らいだったのかも知れません。