【吾妻鏡より】鎌倉武士の昔話──河村三郎義秀。【つのだあきお】

※落描き「河村三郎義秀 求赦流鏑馬図」。

 求赦(きゅうしゃ)は弓射にかけています。

 

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(つのだあきお 角田晶生・フリーライター)

 

 昔むかし。

 

 時は建久元(1190)年八月十六日。

 

 頼朝公が反平氏の兵を挙げてから、早十年になろうという頃。

 

 鎌倉で流鏑馬を奉納しようと支度していたら、射手に一人の欠員が出ました。

 

 「どうすんべいか」と悩んでいた頼朝公に、進言したのは懐島権守こと、大庭平太郎景能。

 

 「射手なら、いい人材がいてまっせ」と言うものだから、頼朝公が誰かと訊いても、回りくどい。

 

 「以前、弟の平三郎(大庭景親)らが降参した時、多くの者が放免されたのに、河村三郎義秀だけ許されなかったのは、いかがなもんでがしょ」

 

 河村三郎義秀とは、今から十年前、大庭景親らと共に最後まで頼朝公に抵抗した武士の一人で、頼朝公は景親ともども処刑を命じた筈。

 

 要するに、とっくに死んでいる筈なのですが、平太郎は何を言っているのでしょうか。

 

「実は、こんな事もあろうかと、ヤツを匿っていたんでさぁ」

 

 えへへ、と笑う景能に、頼朝公はカンカンです。

 

「この野郎、義秀は殺(や)っとけと言っておいたじゃないか。俺を謀(たばか)りやがって……しかし、今日は晴れの流鏑馬神事に免じて赦してやろう」

 

 景能が「計画通り」とほくそ笑んだのは言うまでもありません。

 

 が、しかし。

 

「条件がある。義秀に今日の射手を務めさせろ。一的でも外したら処刑。もちろん射手を辞退しても処刑だわかったかコンニャロ」

 

 その話を聞いた義秀は、まぁどうせ十年前に死ぬ筈だったんだし、と射手を買って出て、見事に全射的中。

 

 ちなみに、箭(や、矢)は十三束(〜そく、束は握り拳一つ分の長さ)、鏑(かぶら、矢の先端に付けて音を鳴らしたり、的に打ち当てる部品)は八寸。

 

 射止めた的は三尺、手挟(たばさみ)、八的(やつまと)との事です。

 

 めでたく命を射止めて頼朝公に仕え、その後も一族と共に活躍したのでした。

 

 これが「河村三郎 求赦之流鏑馬」という次第です。

 

 

 そんな話を覚えていて、こうして落描きのタネにしたのですが、言うまでもなく、私は彼に会った事もなければ、肖像画を見た事もありません。

 

 だから、この絵は間違いなく創作なのですが、それでもこうして描く事で、誰かが彼に想いを馳せてくれるかも知れません。

 

 いつも言っている事ですが、嘘もまことも伝説も、すべてまとめてその人です。

 

 史実に資料が乏しいから、と誰も語らず、忘れ去られて行くよりも、嘘や冗談、駄法螺なんかが混じっても、みんなが覚えてくれる方が、ずっと楽しい。

 

 そうやって、みんな面白哀しく生きていて、やがて冗談みたいに死んでいく。

 

 まるで受けなかったジョークが、ぎこちなく流されていくように。

 

 時こそ八百余年を隔つとも、立っているのはみんな地続き、ここ故郷の鎌倉の土です。

 

 そんな人々の息づかいや気分なんかを、これからも様々な手段で描いて行けたらと思っています。



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